デヴィ夫人の旦那スカルノ大統領とは?馴れ初めと死因・遺産の真相
現在もテレビ番組やSNSで歯に衣着せぬ発言を放ち、圧倒的な存在感を放ち続けるデヴィ夫人。その華麗なセレブリティ生活や国際的な人脈の原点には、かつてインドネシアの国家元首と結ばれた劇的な歴史が存在します。バラエティで見せる気さくな姿からは想像もつかないほど、彼女の半生は激動の国際政治と深く結びついていました。
彼女の夫となった人物こそ、インドネシアの初代大統領であるスカルノ氏です。東京の下町に生まれた一人の日本人女性が、なぜ異国の国家元首に見初められ、激動の時代を駆け抜けることになったのか。劇的な出会いから第3夫人となった背景、夫の失脚と死因、そして長年ささやかれ続ける莫大な遺産を巡る噂の真相まで、その激動のドラマを紐解きます。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:デヴィ夫人の旦那はインドネシア独立の父であり初代大統領を務めたスカルノ大統領。1959年に東京で出会い、39歳の年齢差を越えて結婚した。
- 要点2:イスラムの法規範に基づき「第3夫人」として迎えられ、公私にわたり大統領を支えるも、1965年の「9月30日事件」による政変で夫は失脚・軟禁状態に追い込まれた。
- 要点3:スカルノ氏の死因は腎不全の悪化であり、国家の政変によって遺産はほぼ残されず、現在のデヴィ夫人の財産は亡命後の自立したビジネスと才覚で築かれたものである。
【人物像】デヴィ夫人の旦那・スカルノ大統領とは?建国の父としての経歴と圧倒的カリスマ
デヴィ夫人の夫であるクスノ・ソスロディハルジョ(通称:スカルノ)は、オランダの植民地支配および日本軍政期を経て、1945年にインドネシアの独立を宣言した初代大統領です。「ブン・カルノ(カルノ兄さん)」の愛称で国民から絶大な支持を集め、アジア・アフリカ会議(バンドン会議)を主導するなど、冷戦期の第三世界を代表する世界的リーダーとして名を馳せました。
卓越した演説力と洗練された国際感覚、そして芸術を深く愛する情熱的な性格で知られ、まさに一国のカリスマとして君臨していました。親日家としても有名で、戦後賠償や経済協力を通じて日本とのパイプを太くしていった人物でもあります。その強烈な個性とリーダーシップは、国内外の多くの人々を魅了しました。
【劇的な馴れ初め】根本七保子の若い頃と運命の出会い|39歳の年齢差を越えた熱烈な求愛
後にデヴィ夫人となる根本七保子(ねもと・なおこ)氏は、1940年に東京・麻布の庶民的な家庭に生まれました。若い頃の七保子氏は息をのむほどの美貌と聡明さを兼ね備えており、一家の家計を支えるために定時制高校に通いながら、赤坂の一流高級クラブ「コパカバーナ」などで働いていました。
二人が出会ったのは1959年6月、スカルノ大統領が国賓級の扱いで来日した際のことです。帝国ホテルや赤坂の社交場で対面した瞬間、大統領はその知性と気品あふれる美しさに一心不乱に惹きつけられました。当時、スカルノ大統領は58歳、七保子氏はわずか19歳。実に39歳もの年齢差がありました。
来日を終えて帰国した大統領から送られてきたのは、熱烈なラブレターとインドネシアへの招待でした。同年秋、七保子氏は単身ジャカルタへ渡ります。異国の地で始まった二人の生活は、大統領からの惜しみない愛情に満ちたものであり、1962年に二人は正式に結婚。「ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ(宝石の聖なる女神)」という新たな名前を授けられることになりました。
【第3夫人の真相】なぜ「第3夫人」となったのか?イスラムの婚姻制度と歴代妻たちの存在
デヴィ夫人が結婚した際、大きく報じられたのが「第3夫人」という立場です。現代の日本的な感覚では側室のように誤解されがちですが、イスラム教を国教とするインドネシアの法規範においては、正式な権利を持つ正妻の一人でした。イスラム法では条件付きで4人までの妻帯が認められており、それぞれが法的に平等の権利を有します。
スカルノ大統領は生涯に複数の女性を妻に迎えており、独立闘争期を支えたインギット夫人、インドネシアの初代ファーストレディであり後のメガワティ大統領の生母であるファトマワティ夫人、そして穏やかな人柄で知られた第2夫人のハルティニ夫人などが存在しました。
その中でデヴィ夫人が「第3夫人」となった理由は、政治的な権力闘争から距離を置きつつ、大統領の個人的な安らぎと国際社交のパートナーとしての役割を期待されたためです。デヴィ夫人は卓越した語学力と立ち振る舞いで、各国要人を迎える迎賓館外交の華として活躍し、事実上のファーストレディ格として国際舞台で脚光を浴びました。
【政変と亡命】インドネシア「9月30日事件」の激震|愛娘カリナの誕生とパリへの脱出
平穏で華やかな大統領夫人としての生活は、長くは続きませんでした。1965年9月30日、軍内部の左派将校によるクーデター未遂事件、いわゆる「9月30日事件」が勃発します。これを契機にスハルト少将が実権を掌握し、スカルノ大統領は急速に政治的権力を奪われていきました。
混乱の渦中、デヴィ夫人は身重の体となっていました。身の危険が迫る中、大統領の配慮と手配によって極秘裏に日本へ帰国。1967年3月に東京の病院で長女・カリナ(Kartika Sari Dewi Soekarno)氏を無事に出産しました。しかし、インドネシア国内ではスカルノ大統領がすべての公職を解かれ、ボゴールやジャカルタの宮殿で事実上の軟禁状態に置かれてしまいます。
日本に留まることも政治的思惑から困難となったデヴィ夫人は、幼子カリナを連れてフランス・パリへと亡命を決意します。異国の地でシングルマザーとして生きる過酷な環境に置かれながらも、彼女はその美貌と気品でヨーロッパ社交界の寵児となり、「東洋の真珠」と称賛される地位を確立していきました。
【死因と最期】スカルノ元大統領の孤独な死|軟禁下での病状悪化
政治の表舞台から完全に排除されたスカルノ氏は、ジャカルタのウィスマ・ヤソ(ヤソ宮殿:デヴィ夫人のために建てられた邸宅)で過酷な監視下に置かれていました。持病であった重度の腎臓病(腎不全)が悪化の一途をたどる中、十分な医療処置を与えられず、心身ともに衰弱していったと伝えられています。
1970年6月、病状が危篤に陥った報せを受け、デヴィ夫人は幼い娘カリナを伴って急ぎジャカルタへ飛びました。病床で意識が朦朧とする夫と涙の再会を果たした直後、1970年6月21日、スカルノ元大統領は69歳で息を引き取りました。直接の死因は腎不全による尿毒症の悪化でしたが、実質的には政変による過酷な軟禁生活が命を縮めたと言われています。
【遺産の真相】スカルノ大統領の「莫大な隠し財産」は存在したのか?
元国家元首の妻と聞けば、巨額の遺産相続を思い浮かべる人が少なくありません。当時から週刊誌や海外メディアでは「スイス銀行に眠る数千億円の隠し資産」「莫大な石油利権の遺産」といったセンセーショナルな噂が幾度となく報じられました。
しかし結論から言えば、デヴィ夫人が受け取った目に見える遺産はほぼ皆無でした。政権交代によってスカルノ氏名義の国家資産や不動産は新政権によって接収・凍結され、大統領個人に引き継げる私有財産は激動の政変の中で散逸してしまったためです。
後年、デヴィ夫人自身もインタビューや自著で「夫からの遺産など一円も受け取っていない」と明言しています。パリ亡命後の華やかな生活や、帰国後の優雅な暮らしぶりは、夫の残した遺産によるものではなく、自ら立ち上げた環境関連のコンサルティング事業、宝石や美術品のトレーディング、そしてテレビタレントとしての自己プロデュースによって一代で稼ぎ出したものです。逆境を跳ね返して生き抜いた「自立した実業家」としての姿こそが、デヴィ夫人の真の凄みと言えます。
【デヴィ 夫人 旦那】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:デヴィ夫人はスカルノ大統領の何番目の妻ですか?
A1:正式な婚姻記録において第3夫人です。イスラム法に基づいた法的な正妻であり、大統領の国際親善や外交行事を支えるパートナーとして世界的に知られました。
Q2:二人の間に子どもは何人いますか?
A2:二人の間には、1967年に誕生した長女のカリナ(キラン氏の母)が1人います。カリナ氏は現在、慈善財団の代表などを務め、国際的な人道支援活動を行っています。
Q3:スカルノ大統領が亡くなった後、デヴィ夫人は再婚しましたか?
A3:デヴィ夫人はスカルノ氏の死後、一度も再婚していません。ヨーロッパ社交界ではスペインの貴族や世界的富豪らと数々の浮き名を流しましたが、法的な結婚相手は生涯スカルノ大統領ただ一人です。
まとめ:時代を超えて語り継がれる愛と波乱の軌跡
デヴィ夫人と旦那・スカルノ大統領の軌跡は、単なるセレブリティの結婚劇ではなく、アジア現代史の大きなうねりと直結した壮絶な人間ドラマでした。19歳の若さで国家元首に嫁ぎ、政変と亡命という極限の試練を経験しながらも、彼女は決して悲劇のヒロインに甘んじることはありませんでした。
激動の時代を駆け抜けた愛の記憶と、自らの才覚で道を切り開いてきた強靭な意志。80代を越えてなお輝きを失わないデヴィ夫人の気高さの根底には、インドネシアの建国の父と共に激動の歴史を生きたという、何者にも代えがたい誇りが今も息づいています。 (出典: デヴィ 夫人 旦那(Yahoo!ニュース))